カリフォルニアワイン協会日本事務所では、ワインライターであり教育者でもあるイレイン・チューカン・ブラウン(IWSC インターナショナル・ワイン・アンド・スピリッツ・コンペティションによる2020年「年間最優秀ワイン・コミュニケーター」受賞者)が、「JancisRobinson.com」のために執筆した「カリフォルニア、シャルドネの物語」(全4部、原文は2018年12月に発表)の日本語版(ヴィニクエスト代表小原陽子氏による翻訳)を作成いたしました。

パート1に引き続き、パート2をお届けします。

※日本語版eBook(パート1〜4統合版)は、こちらからダウンロードできます。
※JancisRobinson.com掲載の原文(パート2)はこちらから。

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カリフォルニアのシャルドネの確立:1950年代から1970年代

ナパ・ヴァレーに初めてシャルドネをシャルドネとして植えた地として知られているのは標高1,000から1,600フィート(305から490メートル)にある火山性ローム土壌のストーニー・ヒル・ヴィンヤードだ。最初のワインは本来ファースト・ヴィンテージとなるはずだった1952に不幸な汚染事故を経験し、1953のヴィンテージから発売された。マクレア夫妻はナパ・ヴァレーの多くの生産者と友人だったこともあり、近隣からワイン造りを学んだ。もちろん彼らがインスピレーションを与えられたのはヨーロッパのワインだったが、当時ヨーロッパとカリフォルニアのワインメーカーの間にはほとんどコミュニケーションはなかったため、例えばブルゴーニュのワイン造りの技術についてはほとんど知識が入ってこなかったのだ。品種に特化したワイン造りは当時まだ発展途上にあり、彼らがシャルドネを造るために用いた手法は「ただ白ワインを造る」手法だった。

1972年、マイク・ケリーニ(Mike Chelini)はストーニー・ヒルの栽培監督として、その後はフレッド・マクレアと共にワインメーカーとしても働いた。マクレアが1977年に亡くなると、ケリーニは栽培醸造どちらの指揮もとることとなった。現在ケリーニはナパ・ヴァレーで最も長く現役を務めたワインメーカーであり、北米で最も長く現役を務めたシャルドネ生産者だ。ちょうど今月、ストーニー・ヒルは70歳を迎えるケリーニが2018ヴィンテージの完成を最後に引退することを発表した。インタビューでケリーニは、マクレアに教えられた通り忠実にストーニー・ヒルのシャルドネを造り続けてきたと話し、マクレアはその手法を決して変えてはならないと言っていたと述べた。使用されている器具ですら、ほとんどが当時のままだという。さらに質問を重ねると、ケリーニは当時と変更したことの一つとして、二酸化硫黄の添加量を減らした点を認めた。

ほとんどが創立当時と変わらないストーニー・ヒルのシャルドネはカリフォルニアのワイン造りの歴史を覗き見るための重要な窓の役割を果たす。ケリーニによれば、そのワインは最初の数年間は強いフレーバーを感じないスタイルを目指していたという。その代わり、ボトルの中で10年も熟成をさせればおのずとワインが本来の味わいを発揮してくれるのだとマクレアは信じていた。ブドウは自然の高い酸を保つことを意識し23.5ブリックスほどで収穫した。収穫後、シャルドネは破砕機を通り、直接プレス機へ送られた(この手法の選択は当時入手可能だった機材を考慮すれば論理的で、この地域ではごく一般的なものだった)。果汁が得られたら酸化を防ぐために二酸化硫黄を添加し、静置後古樽または木製のタンクで発酵させた。ワインは滅菌ろ過を経て瓶詰されるまでの10か月間、バトナージュもマロラクティック発酵(MLF)も行わず保存した。

ピーター・マクレアが説明したように、この地では1970年代にはMLFを行わないことが一般的だったが、彼は二酸化硫黄の添加量が多かったため(破砕時に通常100ppmほどを添加していた)単純にMLFが起こらなかったと考えている。温度コントロールをしないまま冬を過ごし、早めに瓶詰したことも理由の一つだろう。現在のストーニー・ヒルでは80ppmほどの二酸化硫黄を使用し、遊離亜硫酸が20ppm以上となるようにしている。目指すスタイルは創立当初から変わらず、ワインのpHを低くすることで若いうちは痩せて感じるワインは、ボトルの中でブーケをまとい優雅に熟成していく。実際、ストーニー・ヒルのワインはその熟成の優雅さで知られ、1980年代のワインですら活力にあふれ、今もボトルの中で進化を遂げ続けている。

 

ハンゼルの物語

1953年、ハンゼルはソノマにほど近い、標高650から900フィート(200から275メートル)にある火山性粘土ロームの土地にブドウを植え始めた。現在ハンゼルは継続的にシャルドネとピノ・ノワールを栽培する北米最古の畑の所有者であり、その地はアンバサダーズ・ブロックと呼ばれている。彼らはシャルドネの穂木をストーニー・ヒルから譲り受け、ソノマ・カウンティで初めてシャルドネの畑を確立した(ちなみにハンゼルのピノ・ノワールはマーティン・レイから取得している)。

特筆すべきは、ハンゼルの創立者がヨーロッパのワインからもインスピレーションを受けていた点だ。もともとの所有者ジェームス・ゼラーバッハ(James Zellerbach)はアメリカの駐イタリア大使で、広くヨーロッパを巡った彼はブルゴーニュ・ファンだった。ハンゼルの創立にあたり、彼が目指したのはヨーロッパの影響を受けたワインを新世界にある自らのホームグラウンドで造ることだった。ストーニー・ヒル同様、ブルゴーニュで使われていたような特別な技術の情報はほとんど入らなかったため、ハンゼルでのワイン造りはワインメーカーの革新的なアイデアによるものだった。これもまたストーニー・ヒル同様、ハンゼルでも当初MLFを起こすことはできなかったが、ストーニー・ヒルと違ったのはハンゼルではピノ・ノワールも造っていた点だ。ワインメーカーだったブラッド・ウェッブ(Brad Webb)は数多くの実験を繰り返し、結果としてハンゼルは北米で初めてMLFをコントロール下で完了させたワイナリーとなった。その技術が最終的に、彼らのシャルドネにも用いられることとなったのである。

更なる品質の向上を目指し、ウェッブはハンゼルで次々と新たな技術を導入した。ステンレス・メーカーと共同し、世界初とされる温度コントロール可能なステンレス・タンクを生み出したのも彼だ。この発明は技術面で根本的な転換につながり、カリフォルニア全体のワインのスタイルに重要な変化をもたらした。このように発酵を温度コントロールされたタンクで行うことにした一方で、その他のアプローチはストーニー・ヒル同様に変えなかった。すなわち、酸を維持できるタイミングで収穫し、破砕と共に二酸化硫黄を添加し、すぐに圧搾する手法だ。だがステンレスでの発酵がスタイルに与える影響が次第に明らかになってくると、ハンゼルでは技術面全体で微妙な変更を始めた。

そうしてゆっくりとハンゼルのスタイルは確立されることとなったが、ワインメーカーであるマイケル・マクニール(Michael McNeill)によって現在でも忠実に守られている手法が2ロット・アプローチだ。ブドウは運び込まれると同時に破砕し、3時間ほど二酸化硫黄の添加をせず果皮とともに静置する。果皮と接触させることでアロマやフレーバーを多く抽出しながら、果汁を意図的に酸化し、苦みのあるフェノリックを沈殿させて発酵前に取り除くためだ。強いタンニンや過剰なフレーバーの抽出を避けるため果皮との接触時間は最小限にとどめる。その後果汁の75%を温度コントロールのされたステンレス・タンクで、残りは新樽で発酵する。樽発酵のロットはMLFも行い、1年後にステンレス・タンクへ移し、さらに6か月熟成させる。ステンレス・タンクで発酵させたロットはMLFを行わず、6か月後に古い樽へ移して1年間熟成させる。18か月後、その2つのロットを合わせ、滅菌ろ過し、瓶詰するという手法だ。

この2ロット・アプローチはピュアな果実味を維持できる温度コントロール下での発酵の利点をいかしながら、フレッシュさと豊かな風味のコンビネーションを生みだすことができる。ハンゼルのシャルドネはその優れた熟成能力で知られ、ワイン・クラブのメンバーにライブラリー・コレクションを販売することでそれを実証してきた。ストーニー・ヒル同様、ハンゼルもカリフォルニアワインの歴史を覗き見るための興味深い窓の役割を果たす。1970年代終盤にかけてピュアな果実、複雑さ、フェノリックのバランスを追及するために傾けられた情熱を映す鏡ともいえるだろう。

 

ロバート・モンダヴィの登場

ロバート・モンダヴィは1966年に自身の名を冠したワイナリーを設立したが、彼はワインだけではなく、マーケティング能力でも世界中にその名を知らしめた。興味深いのは、モンダヴィがハンゼルの発明を大いに活用した点だ。1960年代までに、ハンゼルはステンレス・タンクを完全に使いこなしていたが、そのワイナリーはまだ小さかった。モンダヴィはその技術を大規模な商業スケールに応用し、ほぼすべてのモンダヴィのワインをステンレス・タンクで発酵させた。彼のフュメ・ブランは樽発酵で知られているが、実は赤ワインについてはステンレス・タンクで発酵することに主眼を置いていたのである。1980年代から1990年代にかけて、モンダヴィでは赤ワインを木製の発酵槽で発酵させる小規模な実験も行っていた。だが1999年にトカロンのセラーに木製の大型発酵槽が設置されるまで、基本的にはステンレス・タンクでの発酵後に樽で熟成を行っていたのである。なお現在は、モンダヴィの最高級のカベルネ・ソーヴィニヨンは、そのほとんど発酵をこのトカロンのセラーで行っている。

モンダヴィがステンレス・タンクを採用した影響は計り知れない。おかげでカリフォルニア全域にその使用が広まることとなったのだ。その結果ナパ・ヴァレーでは大きな「感覚の変化」が起こった。歴史的な口述筆記には、1970年代から1980年代の著名な生産者たちが木製の容器で発酵を行うことに対する過剰なまでの拒否反応を示している記述が散見されるのである。あまりにステンレス・タンクに慣れ親しんでいたため、当時多くの人は木製の容器を使うことは危険で、不潔だと感じるようになっていたのだ。

ワインメーカーたちは白ワインを4.5~15.5℃で発酵させ、ゆっくりした発酵で複雑さを求めながらも、ピュアな果実味を保つよう努めていた(温度コントロールを行わなければ、発酵温度は容易に26.5~32℃にまで達してしまう)。一般に、発酵温度が低いほどワインにはフルーティなアロマやフレーバーが増し、発酵温度が高いほどこれらフルーティさの元となるエステルが失われ、土っぽさやハーブのニュアンスが出てくる。一方、ステンレス・タンクを用いると発酵直後のフレーバーは弱まる。ところがテーブルワインへの世間の注目が高まり始めていたこの時期には、早いうちから飲み頃となるワインを生産する必要があり、当時求められていたのはすぐに飲んでも香り高いワインだった。そこで生産者たちは当時入手可能な機材を活かしつつも、従来のように収穫・破砕後すぐに圧搾するのではなく、破砕後に果皮と果汁を接触させる時間を長く取るようになっていったのである。つまりスキン・コンタクトによってワインのフレーバーを強めたのだ。

生産者たちはスキン・コンタクトの時間を数時間から2日までさまざまに試した。しかし時間を長くすると、フェノリックの苦みや粗さが問題となることがわかった。そこでワイン中のフェノリックや沈殿物を減らすため、スキン・コンタクト後発酵前に果汁を遠心分離にかけたり濾過をしたりする試みを始めた。だが発酵前に遠心分離や濾過を行うと(訳注:酵母が除去されてしまうため)、今度は発酵に問題が生じ、培養酵母の利用など別の補完技術が必要とされるようになった。さらに低温での発酵も培養酵母の使用を後押しした。また発酵前濾過を行うと、現在は一般的である澱の上での熟成もできない。一方で、生産者たちは熟成における樽の役割を理解するようになり、1970年代後半には新樽で熟成させることで得られる豊かなフレーバーが好まれるようになった。ただし、樽発酵は当時まだ一般的ではなかった。ブドウはアルコール度数が13%以下となるよう収穫されていたため、ワインに感じられる重さはアルコールではなく主にスキン・コンタクトに由来するフェノリックの影響だった。

同じころ、地理的に離れていたサンタ・クルーズ・マウンテンズでは、マーティン・レイのような志高い人物が我が道を究め続けることは比較的容易だった。すなわち彼はそれまで通り、ワインを木製の容器で発酵させていたのである。MLFに関しては、1970年代に入っても彼のワインでは一度も起こらなかったが、1970年代終盤に所有者が変わり、マーティン・レイと呼ばれていた場所の名がマウント・エデンとなった頃、偶然にして初めてのMLFが起こった。これはセラーを拡張した際にセラーの気温が上昇したためだったのだが、ワインメーキング・チームはその結果を好ましいととらえた。1980年代初頭、ジェフリー・パターソン(Jeffrey Patterson)がワインメーカーを務めるころには、マウント・エデンでMLFは標準となっていた。パターソンはMLFのもたらす効果とバランスを取りながらフレッシュさも保つため、収穫を早めることにした。こうしてマウント・エデンはやや遠回りをしたものの新たなシャルドネのスタイルを表現することとなり、現在「わかりやすいクラシック」とされるワインを生産している。彼らはまた、北米においてシャルドネを自社畑のみで造る最も歴史の長い生産者であり、ジェフリー・パターソンは現在、この著名な場所でマーティン・レイを含め誰よりも長い経験を持つワインメーカーである。

その一方で、ノース・コーストでも実験は続き、その対象が広がっていた。この実験の加速には、シャルドネが自社で使うためだけではなく、他の生産者にも販売されるようになったという背景がある。このブドウ市場の変化はワイン市場の変化によってもたらされたものだ。1961年、シャルドネの栽培面積は州全体でたった300エーカー(120ヘクタール)しかなかった。ところが1967年にアメリカでテーブルワインの売り上げがデザートワインのそれを上回ると、当時辺境の地とみなされていたノース・コーストに新しく若い生産者が進出し、ブドウを栽培する大きな流れを生み出した。同時に、すでに地位を確立していた生産者たちの中にも経済的にうまみの少ないブドウの栽培面積を数エーカー、あるいは数列でも、と増やす者が出始めた。実は1970年代に入るまで、ブドウ栽培のコストは販売額に見合うものではなく、さらにシャルドネは当初収量の低い品種だったのだ(だからこそ、上述の通りUCデイヴィスでヒート・トリートメントに用いられ、結果として生産性が高くウィルスのないクローンが作られるようになったのである)。だからシャルドネは1960年代の終盤まで、原則として自分たちのワイナリーでワインを生産することを目的として栽培される品種だった。

1960年代終盤になるとようやくブドウの価格が栽培コストを上回るようになり、ノース・コーストにも販売用のシャルドネの小さな区画を備えた畑が見られるようになった。ちなみにパリスの審判で勝利を収めたあの有名なモンテレーナ1973シャルドネはソノマ・カウンティとナパ・ヴァレーにある畑から獲れたシャルドネのブレンドで、アレクサンダー・ヴァレーとロシアン・リヴァー・ヴァレーを中心に、ナパ・ヴァレーのオーク・ノールとカリストガのものも少量含まれていた。

マイク・ガーギッチ(Mike Grgich)はシャトー・モンテレーナ創立時のワインメーカーで、パリスの審判が彼にもたらした名声によって自身の名を冠したワイナリーを設立する1977年までそこで働いた。口述筆記によれば、ガーギッチはかのモンテレーナのシャルドネをストーニー・ヒルやハンゼルが確立してきた手法にほぼ則って造ったようだ。すなわち、ブドウを破砕機にかけ、酸化を防ぐため二酸化硫黄を添加し、数時間果皮と接触させてから圧搾。発酵は温度コントロールされたステンレス・タンクを用い華氏40~50度(訳注:4.4から10℃)と比較的低温で行い、MLFは行わず、1度使用された樽で熟成させた。1度使った樽だった理由は、彼らが初めてシャルドネを造ったのが前年であり、新しい樽を購入する余裕がなかったためだ。当時樽の入手は簡単ではなく、毎年新樽を購入するなど、カリフォルニアではほぼありえないことだった。

自身のワイナリーへ移ってからも、ガーギッチは同じスタイルでシャルドネを造り続けた。現在でもガーギッチはMLFを避ける。だが時とともに、苦みのあるフェノリックを避けるため果汁を早期に意図的に酸化させる方向に転換し、一方で総亜硫酸量は減らした。現在ガーギッチは別のスタイルでもシャルドネを造っている。例えばミリェンコ・セレクション(Miljenko Selection)は、自然の高い酸に焦点を合わせ、果汁をあえて酸化させるがMLFは行わない。ただし発酵と熟成は樽の味わいへの影響を抑えつつ、樽がテクスチャに与える利点をいかすため大型のフードルで行っている。

シャルドネの栽培面積はノース・コーストでゆっくりと増えていた。1960年代、ロバート・ヤング(Robert Young)はソノマ・カウンティ北部の、やや温暖なアレクサンダー・ヴァレーで、自身の名を冠した畑に少しずつブドウを植え始めた。300フィート(90メートル)をやや下回るほどの標高にある混合ローム土壌のこの畑こそ、1970年代にカリフォルニアのシャルドネにとって重要な指標となり、その成功がソノマ全体にこの品種の栽培が広がるきっかけとなる畑だ。1975年、リチャード・アローウッド(Richard Arrowood) はシャトー・セント・ジーン初のシャルドネをこのロバート・ヤングのブドウで作り、ラベルにその畑名を記した。そのワインはストーニー・ヒルやハンゼルの軽やかなスタイルとは対照的に、発売時からパワーとフレーバーを感じられるような造りだった。ブドウはやや遅めに収穫したものの、まだその目標アルコール度数は13.5%以下だった(つまり1990年代のようなアルコール度数で作られることはなかった)。MLFはまだ行っていなかったが、フレンチ・オークによる熟成は味わいに新たな層を与え、よりまろやかで芳醇なスタイルに仕上がった。このシャトー・セント・ジーンにおけるロバート・ヤングの成功はカリフォルニアのシャルドネの新たな礎となった。また、シャトー・セント・ジーンはアメリカで初めて畑に焦点を当て、ロバート・ヤングの畑の重要性を強調したワイナリーでもあった。現在ロバート・ヤングのクローンはFPSを通じてクローン17として入手可能だ。

パリスの審判が開催された1976年には、テーブルワインへの関心の高まり、収量の高いクローンの安定した供給、ブドウの価格の上昇といった要素が組み合わさり、ようやくシャルドネの栽培面積が増加するようになった。1976年、州内のこの品種の総栽培面積は11,500エーカー(4,655ヘクタール)となった。消費者の需要に後押しされ、シャルドネの栽培面積の拡大が州全体で進んだのが1980年代。2000年までにこの品種は州で栽培面積が最大の103,491エーカーに達し、フランスのシャルドネの栽培面積を超えた。総栽培面積は10万エーカーを前後し続けているが、シャルドネはそれ以来(カベルネ・ソーヴィニヨンに何度も脅かされそうになりながらも) 常に栽培面積最大の品種であり続けている。栽培面積が2番目および3番目の白ブドウ品種であるピノ・グリ(-ジョ)とソーヴィニヨン・ブランはかなり水をあけられており、それぞれ栽培面積はたった17,000および16,000エーカーだ。

パート3に続く

 

参考文献

・Gerald Asher, 1990, ‘Chardonnay: Buds, Twigs and Clones’, Gourmet
・Robert Benson, 1977, Great Winemakers of California
・Doris Muscatine, Maynard Amerine, Bob Thompson, 1984, The Book of California Wine
・Thomas Pinney, 1989, A History of Wine in America, Volumes 1 & 2
・Frank Prial, 2001, Decantations: Reflections on Wine
・Nancy Sweet, FPS, UC Davis, 2007, ‘Chardonnay History and Selections at FPS’, FPS Grape Program Newsletter
・George Taber, 2005, Judgment of Paris: California vs France and the historic 1976 Paris tasting that revolutionized wine
・FPS Grapes, Grape Variety: Chardonnay
・Focus on Chardonnay (proceedings of a four-yearly meeting of Chardonnay producers from around the world, available from the participating wineries only)
・University of California Oral History Project: including Ernest Wente, Wente Family, Mike Grgich, Zelma Long, Eleanor McCrea, Maynard Joslyn