カリフォルニアワイン協会日本事務所では、ワインライターであり教育者でもあるイレイン・チューカン・ブラウン(IWSC インターナショナル・ワイン・アンド・スピリッツ・コンペティションによる2020年「年間最優秀ワイン・コミュニケーター」受賞者)が、「JancisRobinson.com」のために執筆した「カリフォルニア、シャルドネの物語」(全4部、原文は2018年12月に発表)の日本語版(ヴィニクエスト代表小原陽子氏による翻訳)を作成いたしました。

まずは下にパート1をお届けします。

※日本語版eBook(パート1〜4統合版)は、こちらからダウンロードできます。
※JancisRobinson.com掲載の原文(パート1)はこちらから。

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シャルドネは現在、カリフォルニアで最も栽培面積が広く、最も売れている品種であり、世界でもその地位を確立している。しかし、意外なことにその台頭は比較的最近のことである。

シャルドネの栽培量がカリフォルニア州で本格的に増加し始めたのはようやく1970年代。そのカギは、アメリカで3つの要素がそろったことだ。すなわち、テーブルワインの売り上げがデザートワインのそれを上回ったこと、ブドウの価格がその栽培コストに見合うものとなったこと、そしてクローンの選抜により平均収量が増加したことだ。なにしろ1960年代初頭には、カリフォルニア全域でシャルドネの栽培面積はたった300エーカー(120ヘクタール)だったのである (Pinney 1989)。

1976年に開催されたパリスの審判でシャトー・モンテレーナ1973シャルドネがブルゴーニュの最高級の白ワインを文字通り「打ち負かした」結果は世間の注目を大きく集めたが、収量が上がり、ブドウの価格のバランスが整い、そしてテーブルワインへの大衆の興味が定着していなければ、その栄光だけではシャルドネに十分な勢いをもたらすには至らなかっただろう。こうしてシャルドネは2000年に州で最も栽培面積の広い品種としての地位を確立することとなった。現在カリフォルニアには100以上のシャルドネのクローンが存在し、様々な処理を経た多様なクローン、歴史的に選択されてきたヘリテージ・クローン、さらに世界中から輸入された新しいクローンなどが存在するが、これらについては後程詳述したい。

以下の4部からなるシャルドネの歴史ではプレミアム・ワインを中心に取り上げているが、その歴史的背景はシャルドネがいかにして日常的なワインとなったのかを理解する一助にもなるはずだ。本稿は著者自身が行ったカリフォルニアのワイン生産者に対する膨大なインタビュー、カリフォルニア全域のワイン生産者に対して行ったインタビューの歴史的口述筆記、該当するカリフォルニアのブドウ収穫報告書(grape harvest report)、およびワインに関わる様々な書籍に基づいて書き起こした。本稿に関わる書籍は文末に参考文献として記している。言うまでもなく、他にも触れておきたい生産者は多く存在する。しかし全ての生産者について書き記すには4部からなるこの超長編記事でも足りず、1冊の書籍ほどの量が必要となる。そのため本稿はシャルドネという品種がその名声をいかにして築き上げたか、そのスタイルや興味の対象が時代と共にどう変化してきたのか、その大局を記すことに主眼を置いている。

本テーマはワインの世界を覗き見るレンズの役割を果たすと言う意味で非常に魅力的だ。シャルドネは確かにフランス原産だが、品種というカテゴリーとしての人気が高まったのはカリフォルニアからだと言える。1930年代終盤にアメリカでラベルへの品種表記が始まるまでは、シャルドネは品種として全くと言っていいほど認識されていなかった。1970年代終盤になると、アメリカでもラベルへの品種表記が一般化し、需要に後押しされる形でワイン生産者たちは品種表記に依存するようになった。当時品種表記の無いワインは事実上ほぼ売れない状況だったためだ。なお、現在のように品種表記のないレッド・ブレンド*が市場で流行し始めたのはここ10年ほどのことである点も申し添えておきたい。
(*訳注:アメリカではred blendとのみ表記されたワインの人気が高まっており、カテゴリーとしても認識されていますが、「ブレンドの赤ワイン」と訳してしまうとわかりにくいため、そのままレッド・ブレンドとしました)

ラベルに品種表記を行うという動きはさらに南アフリカやオーストラリアへも広がり、新世界諸国の標準として確立されることとなった。上述の流れを総合して考えると、カテゴリーとしてシャルドネを確立したことはカリフォルニアがワイン業界にもたらした三大変革の一つだと言えるのではないだろうか。もちろんシャルドネが単独で初めて瓶詰めされたのはフランスだ。しかし、ラベルに品種は表記されてもいなかったし、品種として話題にもされていなかった。現在のようにシャルドネの名が明確に世界に定着したのはカリフォルニアでの流行が発端なのだ。(ちなみに、残る2つの変革は最初にカリフォルニアでそれと認識されたジンファンデルと、マウンテン・カベルネと呼ばれる高地で栽培されるカベルネ・ソーヴィニヨンであると筆者は考えている。世界には高地で栽培されるカベルネ・ソーヴィニヨンは存在するが、これほどまでに拡大し、カテゴリーとして明確に認知できるほどの特性を備えている例は他のどこにもない)

 

シャルドネの到来:禁酒法前から1940年代まで

シャルドネがアメリカにやってきたのは禁酒法前のことだ。ただし、その黎明期は混沌としている。当時クローンの同定は非常に困難で、現在に比べてその優先順位も低かったため、シャルドネがピノ・ブランやムロン・ド・ブルゴーニュと混同されることもあったからだ。このような誤認が原因で、カリフォルニアの一部の地域ではそうと知らずにこれらの品種を栽培しているケースが存在していた。ナパ・ヴァレーもそんな地域の一つだ。

シャルドネは1880年代にはカリフォルニアに存在していたことが確認されている。最初の記録は1882年、チャールズ・ウェットモア(Charles Wetmore)がムルソーから穂木を輸入し、リバモアの畑、ラ・クレスタ・ブランカ(La Cresta Blanca)に植えたというものだ (Asher 1990)。ウェットモアはカリフォルニア州ブドウ栽培委員会(California State Viticultural Commission)会長として州内の栽培品種の多様化に資金援助を行い、地域の育苗所に穂木の提供も行っていた。その結果1880年代終盤には育苗所のワイナリー用カタログはそれらの選抜苗でいっぱいだった (Sweet 2007)。20世紀初頭、このウェットモア・セレクションは現在ウェンテ・セレクションとして知られるクローンを構成する不可欠の要素となるのだが、ウェンテ・セレクションはそれだけで構成されていたわけではない。ウェンテ家は1912年、南フランスにあるモンペリエ大学の育苗所からも穂木を仕入れている (Sweet 2007)。一方、ポール・マッソン(Paul Masson)もまた、カリフォルニアのセレクション確立に大きく貢献していた点を見落としてはならない。

1896年、マッソンはブルゴーニュからピノ・ノワールとシャルドネを持ち帰ってリバモアにある自身の畑に植え、その直後に自身の名を冠したサンタ・クルーズ・マウンテンズにある畑にも植えた。インタビューの口述筆記の中でマッソンの良き友人だったマーティン・レイ(Martin Ray)は、この穂木がマッソンの友人だったルイ・ラトゥールのものだと述べている。

これら3つの苗はシャルドネがアメリカへ輸入された重要かつ初めての例だった。アーネスト・ウェンテ(Ernest Wente)に対するインタビューの口述筆記によれば、ウェンテ家は1908年、リバモアにあるギア・ヴィンヤード(Gier Vineyard)からそのウェットモア・セレクションの穂木を得たとされている。彼らは南フランスからも穂木を持ち込んだが、このウェットモア・セレクションと同じ場所にその穂木を植えており、これらを合わせて現在ウェンテ・セレクションとして知られるものの礎が築かれたのである。一方マッソンの畑からはマーティン・レイが穂木を取得している。彼は1940年代初頭に現在のサンタ・クルーズ・マウンテンズにあるマウント・エデンと呼ばれる場所で栽培を開始した。こうして禁酒法が明けるころにはウェンテとマッソンの畑がカリフォルニアで他にはない、充実した穂木の供給元となるのである。

実は禁酒法の時代(1918–1933)、カリフォルニア全体のブドウ畑の面積は増加している(Pinney 1989)。法律上、世帯主はいわゆる「フルーツジュース」を作ることが許されていたため、ブドウやグレープ・ブリックス(grape bricks)と呼ばれる濃縮果汁の市場が東部の州で花開いたのだ。世帯主たちはこぞって西海岸のブドウを購入し、東部の自宅でワインを造るようになった。彼らは列車でブドウや濃縮果汁を東部へ運搬したため、ブドウ畑はその移動に耐えられる品種に大幅に植え替えられた。すなわち、白ブドウ品種はほぼ全て消失したのである。1930年のブドウ収穫報告書によればカリフォルニアでのブドウ総栽培面積は60万エーカー(24万2,800ヘクタール)だったが、白ブドウ品種はすべてを合算してもその面積は7,000エーカーほどしかなく、リースリングとセミヨンが大半を占めていた。シャルドネは非常に少なかったため、単一の品種として記録されない程だった。

1933年に禁酒法が廃止されても、すぐに別の難局が待ち受けていた。第二次世界大戦へ向かうヨーロッパの緊張が1930年代後半にはアメリカとヨーロッパ間の貿易を妨げたのだ。その結果、アメリカはフランスからのワインを輸入することができず、当然、ヨーロッパへの輸出もできなかった。カリフォルニアワインは禁酒法前の時代、すでにイギリスおよびヨーロッパで敬意をもって捉えられるようになっていた。だが禁酒法の時代になると(法律で許可された)「聖餐用ワイン」を造ったり、東部にブドウを売ったりして何とか持ちこたえているワイナリーはあったものの、輸出を続けることのできたワイナリーは皆無だったため、アメリカワインの名声は海外でも国内でもその根本から消え失せてしまった。ようやく禁酒法が廃止されると、ヨーロッパワインの東海岸への輸入は大都市の多くで独自のカタログを携えたブローカーたちによって再開された。ところが、今度は1941年(訳注:太平洋戦争によって)、フランスワインをアメリカへ輸入する道が完全に閉ざされてしまったのである。そんな中、禁酒法後にアメリカのワインを真摯に受け止め、国を代表するにふさわしいものとするため尽力した唯一の東海岸のブローカーがフランク・スクーンメーカー(Frank Schoonmaker)だった。

スクーンメーカーは自身のフランク・スクーンメーカー・セレクションを1936年に立ち上げた。1939年、彼はワインを探してアメリカじゅうをめぐり、そのカタログにはカリフォルニア州、ニューヨーク州、オハイオ州、デラウェア州などのワインが名を連ねていたが、そこにはカリフォルニアのシャルドネも含まれていた。特筆すべきはこのスクーンメーカー・セレクションには立ち上げ当初から、ラベルに創立者の名前、品種、生産者、産地が記載されていた点だ。ラベルの品種名表記は禁酒法以前にもアメリカに存在していたが、当時はまだ数が少なく表記の統一性にも欠け、表記されている品種もオハイオ州のカタウバなどが多かった。

戦争の影響でこのスクーンメーカーの手法は更に注目を集めることになった。彼のポートフォリオがアメリカで最も重要なワインの供給源の一つとなったためだ (Pinney 1989)。取り扱っていたワイナリーはウェンテ、マルティーニ、イングルヌック、ボーリュー、ポール・マッソンなど錚々たる顔ぶれだったが、スクーンメーカーの手を経ることで彼らは全米市場に品種表記のあるワインを初めて流通させることとなったのである (Pinney 1989)。一方カリフォルニアでは、ウェンテが西海岸全域で販売するワインのラベルに品種表記を行っていた。フィル・ウェンテ(Phil Wente)によれば、アーネストはワイナリーの長期的な成功のカギは消費者の教育にあり、品種名をラベルに表記することはその第一歩だと考えていたそうだ。そのためウェンテではスクーンメーカーとの提携を解消したのちもラベルの品種表記を続けている。

スクーンメーカーと同じタイミングで、ラベルへ品種表記の導入を始めた影響力の強い人物がもう一人いた。ポール・マッソンはその人生を通じ、情熱をスパークリングワインに注いだが、彼の品質、そして品種特性へのこだわりに強い影響を受けたのが、フランスからインスピレーションを受けていた若きマーティン・レイだった。マッソンは禁酒法時代、シャルドネとピノ・ノワールの畑を維持することの難しさを身に染みて感じていた。禁酒法後、70代になった彼は自身のビジネスを売却することにしたが、マッソン自身の反対を押し切って1936年に彼のワイナリーと畑を購入したのがレイだった。ほどなくしてレイはその畑からポール・マッソンの名で品種特性をいかしたテーブルワインを造り始めた。世界と肩を並べるには品種に焦点を当てたワインを造るしかないと確信していたレイはラベルにも品種表記を行い、彼がマッソンの名で造るワインは1940年にはニューヨーク市で注目を集めるようになった。こうしてレイが採用した品種表記ラベルはスクーンメーカーの方針と共鳴し、アメリカ市場がワインに求めるものが変化することとなったのである。

1946年、レイはマッソンのアドバイスを実行に移した。マッソンの畑から穂木を集め、2,000フィート(610メートル)の丘の上、当時レイの名を冠した土地に植えたのである。この地は1970年代終盤にマウント・エデンと名を変えた。時と共にピノ・ノワールの多くはウィルスが原因でディジョン・クローンに植え替えられてしまったが、シャルドネはほとんどが元のマッソン由来のクローンを維持しており、これが現在マウント・エデン・セレクションとして知られるシャルドネである。

1940年代にかけ、カリフォルニアでのシャルドネの動向はほぼ、彼ら創始者たちのそれと相関する。アーネスト・ウェンテは時間をかけてシャルドネの選抜技術を磨き、より健全なブドウを選択して増やし新たな畑に植えた。口述筆記によればこれらの選抜クローンはUCデイヴィスの研究用ウェスト・ヴィンヤード、通称「アームストロング」でも栽培されたようだ。そのアームストロング・セレクションは1950年代にUCデイヴィスの別の畑に植えられ、1956年から1961年にかけてカリフォルニアじゅうに配布されている。

その後UCデイヴィスはこの選抜クローンの配布をやめ、代わりに別の選抜クローン(これらも元をたどればウェンテに由来するものだが、それは後述)でヒート・トリートメント(熱処理)の試験を始め、そこから新たな数種のクローンを選抜した (Sweet 2007)。現在それらの選抜クローンはファンデーション・プラント・サービス(Foundation Plant Services (FPS))から入手することが可能だ。このように(a)オリジナルのウェンテ由来のクローン、(b)短期間UCデイヴィスが配布したアームストロングの畑のクローン、(c)ウェンテ由来と考えられている別の畑のブドウに処理を行ったクローンが混在するため、生産者が自分の畑はウェンテの選抜クローンだと述べたとしても、それが正確にどこに由来するのか、特定することは非常に難しい。だが一般的にウェンテ・セレクションであると述べる場合、そのシャルドネはミルランダージュを起こしがちという特徴がある (ブライアン・クローザー(Brian Croser)はこれらのクローンがどのようにしてオーストラリアに渡ったのか、2018年7月の記事で考察している)。

1946年、アーネスト・ウェンテは彼が絞り込んだ中で最上のブドウが植えられている区画から穂木を取ることをフレッドとエレノアのマクレア夫妻(Fred and Eleanor McCrea)に許している。彼らはその穂木をスプリング・マウンテン・ディストリクトにある畑、ストーニー・ヒルに植えた。ちなみに同じ時期、ストーニー・ヒルはリースリングの穂木を近隣のイングルヌックから譲り受けている。ストーニー・ヒル・ワイナリーは1952年までワイナリーとしての免許を取得しなかったが、ブドウの植え付けは1946年に始めていた。このプロジェクトは禁酒法後初めてナパ・ヴァレーにできた新しいワイナリーであること、さらに全てを白ブドウに捧げていたという点で珍しい例だ。彼らはゲヴュルツトラミネールとセミヨン、さらに少量のピノ・ブランも植えていた。ちょうど同じ頃、ジャック・テイラー(Jack Taylor)はマヤカマス・ヴィンヤードにウェンテの穂木を用いてシャルドネを植え始めている。マヤカマスとストーニー・ヒルは共にナパ・ヴァレーで自ら進んでシャルドネを植えた初めての例である。

ストーニー・ヒルで両親が最初の畑を植えるのを手伝ったピーター・マクレア(Peter McCrea)はインタビューの際、そのリースリングの区画には30%ほど別の品種が混ざっていたと教えてくれた。マクレア夫妻はさらに調査を進め、(1)別の品種とは全てシャルドネであること、(2)そのブドウはマクレアがリースリングの穂木を取得したイングルヌックの区画に由来することを突き止めた。イングルヌックの栽培責任者らによると、イングルヌックのリースリングには「普通のリースリングとは異なるブドウ」が常に混ざっていたが、すべて一緒に栽培、収穫、醸造されていたという(当時、品種特性はラベルに表記することはおろか、栽培上ですら大きな問題とされていなかった点を考慮すると、この状況が理解しやすいだろう)。これはストーニー・ヒルでシャルドネの栽培を開始する前から、ナパ・ヴァレーにはそれと認識されずにシャルドネが存在した証拠であると言えるだろう。

さて、ストーニー・ヒルのシャルドネのクローンはUCデイヴィス経由ではなく、直接ウェンテの畑から取得している点に話を戻そう。ストーニー・ヒルはそれらの穂木をノース・コーストの重要な生産者たちに分け、その中にはハンゼル(この後詳述する)やカーネロスのルイ・マルティーニなどもいた。さらに興味深いことに、ストーニー・ヒル由来のマルティーニのシャルドネは最終的にUCデイヴィスに戻り、ヒート・トリートメントに使われているのである。この過程を経てカリフォルニア全土に広がった有名な選抜クローンの一つがクローン4で、収量が高く酸も比較的高いのが特徴だ。収量が高いことから、高品質なワインは高収量とは相いれないと信じるようになった生産者たちからは次第に軽んじられるようになったクローンだ。しかし、現在では品質を重視する生産者の多くが、樹齢が高くても、収量が低くなってしまうような土壌でも、自然な酸を維持してくれるこのクローン4を正当に評価するようになった。一方、クローン5もマルティーニの選抜クローン由来だ。クローン4と5は共にセレクション108として知られるようになり、後年オレゴンのウィラメット・ヴァレーにまで広がることとなる。オレゴンでの108の評判もカリフォルニアでのクローン4と同じような経過をたどった。すなわち、当初はオレゴンの生産者たちも108の高収量で晩熟な性質を軽視し、冷涼なウィラメット・ヴァレーには合わないとしたのだ。だが現在では樹齢が高くなってから、あるいは収量の低くなりがちな土壌でも、108が自然な複雑さを見せ、新しいディジョン・クローンよりも優れた酸の維持能力を持つことを多くの生産者たちが認めている。

パート2に続く

 

参考文献

・Gerald Asher, 1990, ‘Chardonnay: Buds, Twigs and Clones’, Gourmet
・Robert Benson, 1977, Great Winemakers of California
・Doris Muscatine, Maynard Amerine, Bob Thompson, 1984, The Book of California Wine
・Thomas Pinney, 1989, A History of Wine in America, Volumes 1 & 2
・Frank Prial, 2001, Decantations: Reflections on Wine
・Nancy Sweet, FPS, UC Davis, 2007, ‘Chardonnay History and Selections at FPS’, FPS Grape Program Newsletter
・George Taber, 2005, Judgment of Paris: California vs France and the historic 1976 Paris tasting that revolutionized wine
・FPS Grapes, Grape Variety: Chardonnay
・Focus on Chardonnay (proceedings of a four-yearly meeting of Chardonnay producers from around the world, available from the participating wineries only)
・University of California Oral History Project: including Ernest Wente, Wente Family, Mike Grgich, Zelma Long, Eleanor McCrea, Maynard Joslyn